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前回、兄の自殺について記事を書いて依頼 兄の死について興味を持たれたり
共感されている方がおられるようです。
兄はリストカットそして最後は飛び降りて自殺をしてしまいました。
その時のことを今でも鮮明に覚えています。
成功だけが幸せでない、誰かに認められるために生きているのではない。
幸せというのは、誰にでも目の前にある小さなことの積み重ねだということに気が付いてほしいです。
花を見つけた・・・ゴミを拾った・・・・ただそれだけでもいいんです。
兄は最後に母の洗濯物を畳んで手伝ったという幸せを噛みしめて人生を終えました。
どうか、無理なさらず今は人生の休憩時間と思ってゆっくりしてみてください。
明日になれば何か楽しいことがあるかもしれません。
もしかしたら、その次の日かもしれません。
どうか、一日でもいいので生きてみてください。一分でいいから胸を張ってみてください
それだけで十分です。
あなたは頑張りすぎたのです。
私は兄のことを思うと一日でいいから生き続けて欲しいと思います。
兄が生きていたら、私の双子の女の子をどんなにかわいがったでしょう。
見せてあげたかったです。
今日は、兄がどうして自殺まですることになったのか
ひとつの原因として、子育てに関する問題がありました。
そして、その子育てについて考えてみたいと思います。
私たちの父
父は、子供のころ父親が死に・・・母親は他の人と再婚して
父と叔母を残して出て行ってしまった。
そのため、祖母に育てられ貧しく惨めな時代を過ごしてきたそうです。
社会人になっても、服も買えずにスーツを借りて仕事に行ったりしていたらしい。
父は勉強も好きだったらしく、しかしお金がなく高校までしか行っていないらしいです。
だから、悔しくて悔しくてたまらない人生を送ってきたと何度も聞かされました。
いつもいつも誰かのことを「バカだ~バカだ~」と言っていました、
父はアスペルガー症候群
私の父は、家を買うまでずっと会社の近くに家を借りていました。 17時を過ぎると、飲みにいこともなくまっすぐに家に帰ってきました。 そして、お酒を飲んで30分後には地獄の時間です。
玄関のガラスを割ったことも3歳の私の記憶として残っています。 父の友達など一人も見たこともありません。 今みたいにインターネットなんてありませんから、 父はよく自分が思ったことを、あたかも本当のように話していました。 それを信じて何度恥ずかしい思いをしたか・・・・ 父の言うことは絶対でした。 私もそんな父を見て大嫌いでした。 しかし、私も大人になって同じようなことをしていました。 父の行動が嫌いだったため会社の愚痴や 一人悪口を言うことはありませんでしが 話し方、子供の接し方は父よりはましだったかもしれませんが 子供や妻に嫌な思いをさせていたことは同じでした。 しかし、昔はそれが父親としてよくある話だったところもあります。
学歴がすべての父
父は、小さいころから「勉強しろ!勉強しろ!」と言っていました。 塾や習い事も行くように言われていました。 これについては、今父親となって子供のためにお金のことは一切言わず 「やらせてあげよう」と行動できたことは私も見習うべきところだと思います。 ただ・・・・父は限度を知るような人ではありませんでした。 スパルタ的に、自分ができなかった夢を子供たちに託しました。 いつも、「大学に行け~大学に行かないとダメだ~」と言っていました。 もちろん、父の言い分もわかります。 ただ・・・その教え方が異常でした。
兄も私も発達障害者
兄も私も、発達障害を持っていました。兄も間違いないと思います。 発達障害は先天性で脳の作りが違うのです。 もちろん、このころ誰も気が付いていませんでしたが・・・・ 兄だけは、子供のころに発達障害について指導をうけたことがあると母が言っていました。
しかし、父はそんなこと聞く耳なんて持っていませんでした。 父が、兄を発達障害と認めたのは28歳頃です。 母は、父はその時から楽になって少し優しくなり人が変わったと言っていました。 私も息子にまったく同じことを息子にしていました。
これは、アスペルガー症候群であろうと、なかろうと自分の子供を 発達障害と認めたくないのはみんなそうではないでしょうか? 親もアスペルガー症候群だとなおさら認めたくない話でしょう。 特に昔は、精神病や発達障害に対する偏見は今以上に酷かったはずです。 その点、今の時代は救われている思います。
兄と私の違い
兄は、心の優しい兄でした。 父も、厳しかったけれど心は優しい父でした。 いつもドラマを見て泣いていました。
兄はまじめで、私みたいにインチキはしませんでした。 小さいときから父に「お兄ちゃんだから・・・お兄ちゃんだから・・・」と いつも怒られていていました。 私は、その分怒られなかったし、父の怒る姿を冷静に見ていました。 だから、私は逃げる手段をいくつも持っていました。 そして、私は例えどんなに怒られてもビクともしませんでした。 掃除機や扇風機を投げつけられた痛さだって知っています。 それが当たり前の毎日の子供時代でした。
兄は父の犠牲に
兄は、完全に父の思い通りでした。 勉強ができなくても、一生懸命頑張っても、なにをしても怒られていました。 それでも兄はがんばっていました。 今、考えてもあの時代はなんだったのだろう・・・・ 今思い出しても、奴隷のような生活をしていました。 左利きの兄は、そのこともいつも怒られていました。 今は、左利きを右利きにするような馬鹿なことはしませんが 昔は、右利きと同じようにするのは当たり前でした。 ハサミだって、今は100円ショップでも左利き用がありますが 昔はなかったので、兄は工作も苦手でした。 そんなことも、父には関係ありませんでした。 私も、父ほどではなかったけれど、妻や子供たちにそんな思いを 数年させていたのかもしれません。
私は兄に学んでいました。
私は、毎日怒られている兄を見続けてきましたから 父が怒るポイントを知っていました、怒られると思ったときは 適当に誤魔化して泣いたふりをして誤ったり、嘘ばかりついて逃げていました。 その態度は、とても反抗的でした。 子供が泣く、子供が嘘をつくのは、子供に原因があるのでなく 親に原因があるのだと思います。 私は思春期に不良と呼ばれていました。 覚せい剤・シンナーなどには手を出しませんでしたが・・・・ いろいろと悪いこともしました。 友達には覚せい剤に手を出した人さえいました。 父からしてみれば なんでも「はいはい」言う兄の方が教え甲斐もあったのではないでしょうか? たぶん、私が弟でなければ兄はもっと怒られずに済んだかもしれません。 きっと、私の分も怒られていたと思います。 兄は、私と父のもとに生まれてきたことが不幸だったのかもしれません。
兄は息子の中で生きている
だけれど、私たちにとっては いつも優しい兄でした。 私たちは、子供のころたくさん喧嘩もしましたが たくさん遊んだ記憶もたくさんあります。 私の息子にも、「お父さんのお兄ちゃんはとても優しかったんだよ」と よく話してあげます。 そして、兄のように双子の娘をかわいがる姿は いつも兄を思い出させてくれます。 本当にやさしい兄のような自慢の息子です。 だからこそ、私は兄の分も息子を愛してあげようと思っています。
勉強はできませんでした。
兄も私と同じADHDやLDと言った障害も屏発していいたと思います。
私たちは、勉強は全然できませんでした。
そのことも、父は大変怒らせていました。
兄は勉強しても勉強してもできませんでした。
私は、初めからしませんでした。
集中力のない私は、短期間に必要なところだけを
最短時間でこなす術を身につけました。
小学校の時はテストなんて100点なんて1回くらいしかとったことがありません。
今でも覚えています。4年生くらいに「白馬のホース」という国語で
奇跡の100点をとりました♪
そして、母はいつも「お前が悪い」「お前がちゃんとしないからだ」「お前が馬鹿だからだ」
と母までも毎日のように怒られていました。
母もいつも泣いていました。
そういえば・・・母はあまり怒ったことがありません。
父がいつも怒っていたから怒る暇がなかつたのかな?
兄はいつも頑張っていましたが・・・・・
私は、適当にやっていました。100点なんて取りたいとも思ったこともありませんでした。
私は、兄を見て要領よく逃げることを学んでいきました。
受験勉強
兄は中学生も同じような感じで・・・
なんとか私立のレベルの低い高校に入りました。
高校に入っても父はいつも兄を責めていました。
まあ、塾代もたくさん払ったうえ・・・
三流高校だったら、気持ちはわからなくもないけれど
あまりにもひどかった。
そして、私は普通の公立高校に入りました。
私は、数学だけはトップクラスで全国模試でも数学だけは上位でした。
小学6年生からプログラムに興味を持ち
昔のプログラムはX軸とY軸を計算しながら絵を動かしたりと
していましたから中学の時くらいから、
数学が得意だということに気が付きました。
その後、他の勉強は適当に数学だけを自己流で学びました。
しかも、授業中話など聞かずにですから・・・・
数学だけはずば抜けていたのです。
その差は、兄と大きな差でした。
兄の進路
そんな兄もなんとか進学を決める時・・・さすがに大学は無理だと言われたようです。
当時はバブル期で、高卒で働く人も珍しくありませんでした。
ですから、専門学校や予備校に行く人はとても多かったのです。
父は、兄に「頭が悪いなら手に職をつけろと言っていました。」
まあ、その考え方はあっていたのですが・・・・よりによって
そして専門学校に行くことに・・・・
その専門学校が歯科技工士・・・・おいおいおい・・・・
折り紙も工作が大の苦手な人に・・・・・そりゃ無茶だろう?と思いましたが・・・・
案の定、数カ月で挫折・・・・・
兄の人生が狂ったポイント
ここで、父は「こいつはだめだ」と見捨ててしまいました。
実際に見捨てたわけではないかもしれないが・・・・
兄に何も興味を示さなくなったのです。
私は、多くのニートはこんな感じに親が子供の人生に
関わろうとしなくなりなるのではないかと思う時があります。
なぜ、あの時に給料なんかどうでもいいから、
「とりあえず社会に出て勉強してみろ」
そして、「自分にできる仕事を見つければいいんだ」
と言ってあげられなかったのだろう?
兄は、大好きなアニメの声優になろうともしました。
それもすぐにダメになりました。
まず、面接などできないのですから・・・・・
職安に行ってみたり・・・・いろいろ数年はもがきましたが・・・・
そのまま引きこもりになってしまいました。
兄の就職を邪魔する固定観念
兄は、なんとか職につこうと職を探してくるたびに
「そんな小さな会社・・・」
「あんなところで働いたら体に悪い」
「あそこは暴力団と関係がある」
などことごとく、父は兄が見つけた仕事に
何かとケチをつけていました。
ちなみに、弟も10年ほど契約社員のあげく
3年のニート生活を送っていた。
父の職に対する考えは私以外に大きな影響を与えています。
母も父と似たように、弟の会社のことをいろいろ悪く言います。
「会社何てどこもそうだ そんなこと言っていたら誰も働かないよ」
といつも母と弟に言っていました。
私の思春期の友達は、ヤクザになった人もいますが
長距離トラックや危険物取扱の仕事やカーテン屋さん
居酒屋にカラオケボックスと、みんな幸せになっています。
一度目の自殺 ~リストカット~
そんな兄も、いよいよ社会人デビューの日が来ようとしていました。
私たちも心から応援しました。
でも、私たちは間違えていました。
えっ! そんな・・・・・・
一瞬何が起きたのか全く理解できませんでした。
世の中の時間がすべて止まりました。
世の中が真っ白になりました。
兄は・・・前日に手首を切ってしまいました。
兄にとっては、それらい社会が怖かったのでしょう。
私は、兄の病院に行ったとき先生が
でも、まれにもっとエネルギーを使う人がいる。それは自殺をする人だ」
と言った言葉を今でもよく覚えています。
二度目の自殺 ~飛び降り自殺~
そして・・・最後はマンションから飛び降り自殺をしました。
今でも鮮明に覚えています。
兄は、沢山悩んでいました。
私とも泣きながら沢山のことを話しました。
私は、兄がいたから今の私がいます。
私は、グレたり父に頼りたくなかったから友達から
いろいろ教えてもらいました。
車もバイクも悪い友達から教えてもらいました。
父に負けないくらいプログラミングもできるようになりました。
今は、父の会社と比べられないくらいの会社に入りました。
私は、兄と何も変わらない。
ただただ、父の目が兄に向いていたから、私は自由に生きてこれた。
今なら兄をいろいろな面で助けてあげられたかもしれないのに・・・
やはり、兄が生きていてくれたら・・・と思うこともたくさんあります。
私の子育て
私は、そんな父と兄を見てきたので
息子には勉強なんてどうでもいい・・・
まずは体力をつけろ
誰にも負けない根性と気合だけはもてと教えてきました。
ただ・・・その教え方が今までは
父と同じ教え方だったのは反省しなければなりませんでした。
それも、妻が私と息子の発達障害に気が付いてくれたおかげです。
しかし基本的な考えは変わりません。
両方無理なら他のことでも全然かまわない。
女の子もそうだ、やさしい女の子であればなんとか生きていける。
しかし、男の子も女の子も この先何があるかわからない。
いきなり会社がつぶれたりすることだってあるでしょう。
離婚しなければやっていけない事態にだってなるかもしれません。
そんな時に、生きていく力だけは持っていてほしいのです。
いくらいい会社に入っても、続けきれない事態になったときは
どんなに給料が安くても、うつ病になったりしなくていいように
育ててあげたい。
当然、勉強できればできた方がいいに決まっています。
いい大学に行ったらそれだけ、いい人生が送られる可能性があることは教えていますが
例え勉強ができなくても、友達と遊び元気であればそれでいいと思っています。
給料が人の半分なら
給料が半分なら、一緒に頑張ってくれるパートナーを見つければいい。
そして、自分に足りなかった分、彼女を心から大事にしてあげれば同じです。
私のように、いくらいい会社に入っても、いくらもらっても
家族が心から甘えられる家でなければ、なんの価値もありません。
私が、子供たちに教えてあげられるのは勉強ではなく
どんなことがあっても、楽しく幸せに生きていく方法だけです。
コックさんでもいい、長距離トラックの運転手でもいい。
なんでもいいから、楽しく生きていってほしい。
それは、学歴や会社名や給料の額でなく
幸せの条件にはまったく関係のないことを教えてあげておこうと思います。
とはいえ・・・できれば・・・ということは当然願いますよね。
母親として妻の役割
妻は学歴は大切と言います。
私も、その意見に反論はありません。
正しい考え方だと思います。
妻が、行き過ぎた指導をするのであれば止めるかもしれませんが
ある程度の勉強への強制も必要かと思います。
そこは、夫婦話し合ってバランスよく教えてあげることが
大切だと思います。
「勉強なんてしなくていい」なんて教える必要はないけれど
「勉強をさせてあげる 優しさ」も当然にあると思います。
きっと、私から見ればうちの子たちはみんな優秀な子に見えるので
私たち夫婦の考え方のバランスから見ても
勉強については、妻に任せようと思っています。
父親としての役割
もし、勉強など苦しむようであれば
私は勉強以外のあらゆることを体験させてあげようと思っています。
それは、就職や進学に関係なく・・・
山登りだったり、キャンプだったり・・・
人生は楽しむものだということをたくさん教えてあげようと思います。
外食しなくても、家で手軽においしい料理が作れることなど・・・・
私の知っていることを少しずつ教えてあげようと思います。
- 何のためにいい大学に行って
- 何のために就職して、何のために結婚して
- 何のために子供を産んで
- 何のために生きるのか
一緒にたくさん考えながら
子供たちと一緒に私も成長したいと思っています。
亡くなった兄と父に教わった教訓を大事に
私はこの家族を幸せにしたいと思っています。
とは言っても・・・いっぱい失敗しちゃうんだろうけれど・・・・
私の失敗は、子供たちが教訓に自分たちが親になったときに活かされることでしょう♪
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