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私には兄がいた。
兄は、子供のころに発達障害を指摘されていたらしいです。
小学校1年生の時には、特別学級を薦められたこともあったようです。
今となっては、ADHDだったのかはわからないけれど・・・・・
というのが、兄はもうこの世にいないからだ。
兄は、子供のころは一緒によく遊んだ。兄の友達は少なくいつも私の友達と一緒に遊んでいた。
私たちのころは、ゲーム機などなかったので野球がしたければ空き地にバットとグローブをもっていくと
たくさんの子供たちが遊んでいた。
12人 対 12人で野球することなんて珍しくもなかった時代だ。
私は、決して運動神経がよくなかったし、兄ほど野球が好きなわけでもなかったけれど
いつも私にピッチャーをさせてくれた。
そして、兄はキャッチャーをするような優しい兄だった。
兄は、勉強ができなく何とか高校を卒業した。
兄が、一般的な人生を歩んでいたのは高校卒業までだった。
兄は、父の引いたレールを必死に走っていたのだろう。
父がレールを引く場所を見失ったと同時に・・・兄は闇の中にさまよいこんだのかもしれない。
私はというと高校生くらいで、グレて俗にいう不良グループと付き合いだした。
当時は、ビーバップ・ハイスクールなんて漫画も流行ったくらい不良が多い時代だ。
私は、グレていたけれど小学6年生のころからプログラミングができるだけの技術を習得していた。
高校生の途中からプログラミングの仕事ができるまでになった。
大学もコンピュータ系の大学を卒業し、それなりの会社に入社した。
その後、ヘッドハンティングにより誰もが知る今の会社に再就職をした。
だから、私は自分のことを成功者だと思っていた。
そして、兄を脱落者として見ていた。
兄は、18歳から30歳まで、家でゲームやアニメばかりを見る生活をしていた。
一般的にいう引きこもりってやつです。
暴れたり・・・あるとき刃物を振り回すようになり
家族も疲れ切っていた。さすがに刃物に怯えていた母たちに代わって
早くから家を出ていた私が、対応することになった。
両親も疲れ果て・・・見放された状態になった時
兄が泣きながら、私にいろいろ話してくれたことがある。
- お前はいいな~
- お前は頭が良くて
- 思え見体になりたかった・・・・
- 俺は何をやってもダメだ
- 何をやっても怒られる
その時私は、
「俺だって同じだよ。何も変わりはしない。
違うとすれば、気にせず気合で何とかしているだけだ」と話した。
その話は、兄にも通じたみたいで そこから何度か一緒に精神科に行くことになった。
兄は、いくつもの病院に行っていた。
きっと、行っていない病院はないだろう・・・というくらい行っていた。
今みたいにネットがあるわけでもないので手探りだった。
- 薬品の説明しかしない先生。
- 兄の話を全然参考にしない先生。
- 自信満々に明らかに違う判定をする先生。
- 家族のことばかりいう先生。
その頃の私にとって、精神科の先生なんて患者を適当に薬漬けにする先生ばかりだと思った。
その考えは、最近までそう思っていた。
きっと、兄もうつ病以前に私と同じADHDやアスペルガーといった発達障害を
持っていたのではないだろうか?
だから、私は兄の気持ちがわかったのかもしれない。
そして、一緒になって障害に向かう姿勢を間違えてしまったのではないだろうか?
今なら・・・・もしかしてと正直思える・・・・
兄は、一度リストカットをした・・・・
その時は、「俺手首切る」と言ったので母がすぐに救急車を呼んで助かりました。
お風呂場は、天井まで血が飛び散っていました。
その時も、病院でいっぱい話ました。
福岡にダイエーホークスが来たばかりで、弱くて弱くて・・・・・
毎日、病院で野球の話をしました。
私は、それまで野球に興味はなかったけれど兄のために野球をダイエーホークスのことを
勉強して野球中継を見て話しました。
当時の弱い滅多に勝てないホークスにイライラしたのを思い出します。
その時は「がんばろうね」と話していたのですが・・・・
それから数年後、取り込んだままの洗濯物を畳んで母の手伝いをした後
穏やかな顔で「お母さんありがとう」と言って10階のベランダから飛び降りたのが最後でした。
遺体はとてもきれいで、安らかに寝ていました。
正直・・・・私は、これでよかったのだと思いました。
それはそれは悲しかったけれど・・・・兄にとって、生きることがどんなにつらかっただろう?
それなりに責任感もあった、自分に厳しかった、なんとか周りの期待に応えようとした。
でもできない自分にどんなに苦しんでいたのだろう。
私の考えは間違えているかもしれない。それでも兄の気持ちはよくわかる。
周りの人たちはいろいろ言うが・・・・わかってたまるか!!!!というのが本音である。
ちょっと、精神病についてかじった人たちにいろいろ言われると腹が立つ。
だけれど、私は兄と笑った時間もたくさんある。兄とはたくさん話もした。
そして、今は兄の分まで必死で生きている。
そして、私が死んだとき 私の子供たちの子こと私が苦労したことをたくさん話をしたい。
私には、必要な兄だったことは間違いないし、私との思い出を持ったまま成仏したのだろうと思う。
なぜ、今兄の話をしたかというと・・・・
きっと、みんな多かれ少なかれ何らかの障害に近いものをを持っていて、
その時その時に正しい考え方を持って行動していれば違う人生があったのだろう。
兄も、子供のころに知的障害を指摘されていたと聞きます。
もし、その時に両親が受け入れていたら・・・・どんなに違っていたか・・・・
「立派な会社に入って」「えらくなって」なんて・・・考えをもたなかったら
兄が出来ていたことをほめてあげていれば・・・・
兄が出来ることをさせてあげていれば・・・・
兄の不安を聞いてあげることができていれば・・・・・
兄が甘えることができれば・・・・・・
きっと、兄には別の幸せがあったと思います。そして私たち家族にも・・・・・・
私は、今まで息子に同じことをしようとしていたのではないだろうか・・・・・・
そして、最近気が付いたが・・・・妻もADDではないだろうか・・・・・
だから、より私の性格がきつく感じられたのではないだろうか・・・・
妻にADD疑惑については、また後日書こう。
参考【兄の自殺に学ぶ 子育て】
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